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#記憶《不》鮮明
「記憶にありません」な尊礼Pattern:Ⅰ = アルコール
酒を飲みすぎて記憶を吹っ飛ばした青の王が己の身に起こったことについていろいろと思索にふけり、答え合わせのために赤の王を叩き起こすだけのどうしようもない話。 ネタのワリに色っぽさは皆無です。 ゆっくりと、意識が浮上する。
カーテンの隙間からもれる朝の光が、ゆったりと覚醒を促していた。素直にそれに従おうとして――いくつもの障害に、それを阻まれる。 「……どういう、ことですか」 気づいてしまったら、目覚めは未だかつて経験したことがないほど最悪なものになった。 まず、どういうわけか全身が痛い。幸いにも恵まれた体格と武術の才のおかげで、記憶にある限り筋肉痛すらあまり経験したことがないはずなのに、だ。 特に王になってからは身体能力がより強化されたこともあって、身体の痛みを感じる機会などほとんどなくなった。――もっとも、その機会が皆無というわけではないのだが。 ただ、その数少ない機会で受ける痛みとはやはりどう考えても質が違う。怪我を負って痛むのは身体の外側なはずだが、これは内側からくる痛みだ。なんとかまだ幼かった頃の記憶を掘り返して、ようやくこの痛みの三分の一くらいが筋肉痛由来であることを知った。 「なぜ、筋肉痛……」 青の王として石盤に選ばれたこの身は、高層ビルの屋上から地上に飛び降りたとしても傷ひとつ負わないどこまでも頑丈な身体だ。どこをどうすれば筋肉痛になるのか、自分でもよくわからない。なのに、間違いなく身体のあちこちの筋肉が痛みを訴えている。 ただ、横になったまま目を閉じた状態で痛みのひどい部分を感覚で追っていくうちに、なんとなくどうして痛みが発生しているのかはわかってきた。すべて、日頃まったく使わない場所なのだ。 歩くにしろ走るにしろ、そしてサーベルを手にして戦うにしろ、使われる筋肉の場所は決まっている。立場上、これでもしょっちゅう全身を使うことになっているのだが、それでもやはりどうしたって使わない筋肉というのは存在するものらしい。 とりあえず、三分の一はそれでいい。問題は、残りの三分の二だ。 問題しか感じられない残りの痛みのうち、半分は主に腰のあたりを苛んでいた。腰痛なんて、もしかしたら生まれて初めて経験するかもしれない。なにしろ姿勢のよさには自信があり、おかげで骨盤や背骨はいつだって健やかな状態を保っていた。それなのに、だ。 なお、残りに至っては本気で意味がわからない。表現しようのない、ありえない場所が痛んでいる。気のせいだと思いたいのに、思わせてくれない痛みだ。 そして、指一本動かすのすら億劫に感じてしまう、全身の倦怠感。 あいにく、こんな痛みも感覚も初めて体験する。なので、確証は持てない。だが脳内に詰め込まれている知識が、おそらくその答えは間違いではない、と主張していた。 どうしてそんなことになったのか正直なところ予測もつかないが、意識が醒める前から察知していた熱の気配が異常に近しいところにある以上、やはり見当違いな答えではないのだろう。 「…………」 覚悟を決めてゆっくりと目を開けてみれば、眼鏡がないせいでほぼぼやけている視界の隅に、見覚えのある赤がある。 側近くから聞こえてくる息遣いは安定していて、まだ眠りの中にいるようだ。熟睡している、そう判断して間違いはなさそうだった。これが目を覚ましてしまったら、きっと恐ろしく面倒なことになる。それは、確定事項だ。 だとすれば、寝ているうちにこの場を去るべきだろう。それはもう、速やかに。 即座に決断し、実行しかけ――だが、あっさりとその目論見は頓挫する羽目になった。 痛みを訴えてくる腰に回されていた腕が、身動きを阻んだからだ。腕の主の体温が高いせいなのか、触れられているだけで若干痛みが緩和するのがまた腹立たしい。それこそ、ため息でもつきたくなるくらいに。 「……なるほど」 だが、ため息のかわりに口からこぼれたのはそんなひと言だった。 どちらにしろ、今はまだ痛みと倦怠感がひどすぎて身動きしたくない。結局は未遂に終わったものの、身体を起こそうと身じろぎしただけでありえない痛みが全身を貫いたのだ。本気で、意味がわからない。 とはいえ、知識の上では知っている情報と照らし合わせてみれば、そんな意味のわからない痛みが発生する理屈も納得できなくはなかった。納得したくはなかったが。 とりあえず。 「はぁ……」 逃れられない言葉として突きつけられたわけではないものの、状況から察してしまえば頭を抱えたくなるような現状をようやく把握して、宗像礼司はじつに深いため息をついた。 昨夜の記憶は、途中からぷっつり途切れている。 (あの店に入って、二杯目を飲み終わったところでちょうど周防が来た……はず、だが) 少なくとも、そこまでの記憶ははっきりしていた。いつものように宗像が飲んでいたバーへふらりと現れた赤の王・周防尊の姿を目に留めて、嫌味と諦めを含んだ視線と言葉を投げつけたことは覚えている。これもすでに、毎度恒例と成り果てているいつものお約束だ。 どういうわけか、宗像と周防は遭遇率が高い。それも、お互いひとりでいるときに限って、ところ構わず出くわすことになる。 その遭遇率は偶然という単語の意味を疑いたくなってくるほどで、互いに会ってしまうたびに顔をしかめることになっていた。 それぞれ青の王と赤の王という対極な立場にあり、クランの性質的になにかと相反することになる。それだけでも十分だというのに、その上ふたりは徹底的に性格が合わなかった。それはもう、見事なほどだ。 顔を合わせれば、息をするより簡単に罵倒や皮肉が口をついて出る。それは平素から弁が立つ宗像だけでなく、日頃は必要最低限の言葉すら面倒くさがって省略する周防も同じく、だった。周防は、宗像の前だと比較的よく喋る、らしい。 宗像にとっては周防の通常運行だった状態がじつはかなりレアなものだったことを知ったときは、思わず目を丸くしたものだ。冷静に考えてみれば、それが皮肉だろうが説教だろうが関係なしに淀みなく喋り続ける宗像に負けないためには、自分も喋るしかないのだろう、という結論に達した。まあ、納得は出来る。 それに、おそらくはガス抜きの役目も果たしてはいるのだろう。遠慮も容赦もいらない舌戦を繰り広げるのは、思い通りに物事が進まない腹立たしさこそ感じるものの、それなりに心が浮き立つのも事実だ。相容れない立場にある王同士として、いざ《ダモクレスの剣》を出す勢いで手加減なしの力をぶつけ合うのだって、もちろんやり過ぎるわけにはいかないが本音を言えば爽快でもある。 とはいえ、べつに特別会いたいわけでもないのだ。出来ることなら面倒ごとは遠慮したい。それが、嘘偽りない宗像の本音だ。面倒なことにならないのなら忌避もしないが、周防に遭遇して面倒なことにならないわけがなかった。 それでも、ひとりでいればどういうわけか会ってしまうのだからしょうがない。互いに負けず嫌いなため、いくら気にくわない相手がその場にいようとも、そこできびすを返して背中を向けるということは絶対にしないのだ。 子供じみた意地の張り合いと言われればそれまでだし、宗像自身そう思ってもいる。ただ、自重する気にもなれないだけだった。それはもう、まったく。 なので、昨夜も周防が現れたからといって店を変える気にはならなかった。なるわけがない。 もちろん周防も嫌そうに眉間にしわは寄せたものの、きびすを返すことはなかった。流れるようにその口から棘のある嫌味を垂れ流し、それでもすぐ隣の席へと投げ出すように腰を落ち着けたのだ。いつも通りの光景だった。 問題は、その後だ。 未だまともに身動き出来ない身体に心の中で舌打ちしながら、宗像は昨夜の記憶を探っていく。 「……その後は?」 さて、困った。 まったく、覚えがない。まっさらだ。 酒を飲んでいた、のは間違いない。なんといってもバーにいたのだし、隣の周防も普通に飲んでいた。 ただし、何杯空けたのかは記憶にない。もちろん、何時までそこにいたのかも覚えていない。当然ながら、どうやってここへ移動してきたのかも記憶に残っているはずがなかった。 そもそも、ここはどこだ。そんな最初に気付くべき疑問にようやくたどり着いて、ぐるりと視線だけを巡らす。あいにくと、まだ身動きするのは辛い。 とりあえず、部屋の内装に見覚えはなかった。自分の部屋ではなく、そもそも誰かの家とも思えない。 (まあ……それ以外、ないな) 見覚えこそないものの、こういった構造をしている部屋は知識として知っているし、利用したこともある。部屋の広さや家具の質、備えつけられている設備等から推察するに、ランクとしてはシティホテルとビジネスホテルの中間に位置する、いわゆる高級ビジネスホテルの一室だと思われた。 枕は十分に柔らかかったし、どういうわけか素肌に直接触れているシーツも滑らかで心地良く、身体に掛けられている羽毛布団もふかふかだ。ベッドのスプリングもなかなか快適で、こんな状況でなければ久しぶりに二度寝の誘惑に負けていただろう。幸い、今日は久しぶりの非番だ。《青の王》に休日はないが、少なくとも東京法務局戸籍課第四分室室長は休みである。なにしろ表向きは公務員なので、本人に休む気がなくともたまにこうやって強制的に休みが与えられることがあった。 ――それは、いいとして。 「なぜ、裸なのでしょう……?」 少しだけ頭を動かせば、広がった視界の隅に散らばる衣服がいくつか見える。どれも、床の上に落ちていた。脱ぎ散らかされてそのまま、といった風情だ。実際、まさにその通りなのだろう。ベッドのすぐ下に下着が落ちているのを目に留めてしまった宗像は、ため息ひとつついて視線を逸らした。実況見分はもう十分だ。 全身が通常では発生しえない異常を訴えているものの、身体そのものはさっぱりしていた。汚れている、といった感じはない。記憶がないのでどちらがやったのかはさっぱり不明だとはいえ、後始末はきちんとしたのだろう。 ――誰がやったのかは、本気で考えたくはない。なんというか、前提となるはずの事態よりも考えたくない気分なのが不思議だ。 なので、なぜ痛さとだるさのみで他の不快感がないのかについて考えを巡らせることを止めて、その前提に改めて焦点を当ててみることにする。 目覚めた直後から目を逸らしようがないほどあからさまな身体の各異常、そしてまるで枕のように抱き込まれている現状から、答えはあっさり導き出された。目の前で、なんだか気持ちよさそうに熟睡しているこの男と、いわゆるそういう行為に及んだのだろう。身も蓋もなく言ってしまえば性行為、セックスというやつだ。 どちらも性別は男のはずなのだが、不可能だというわけではない。あいにく今までそういう経験はなかったが、知識として可能なことだけは知っていた。 まさか己の身にその知識を当てはめなければならない事態に陥るなんて、予想外ではあったが。 「……っ」 目が覚めた直後よりはマシになってきた痛みをなんとか無視して、なにをしても外れそうのない腰に巻きつく腕をそのままに、そろそろと上半身を起こす。そうすれば自然と視界は広がり、自分を抱き込んだまま寝入っている男の姿を見下ろすことができるようになった。 シーツからはみ出している上半身は、宗像と同じようになにも身につけていなかった。下半身は見えないので、考えないことにする。 ……が、起き上がる直前まで自分の足に絡んでいたものの感触から推測すると、おそらくなにも身につけてはいないのだろう。もちろん、そんなことがわかるのだから宗像自身も同じだ。全裸だ。とっくにわかっていたことだが、改めて突きつけられると若干げんなりする。 ちなみに、一度は離れたはずの足は今、触れていた体温がなくなったことが不満なのか、もぞもぞとふたたびくっついてきていた。ちらりと横目で顔を確認してみたが、目が覚めた様子はないので勝手にさせておく。今やろうとしていることの邪魔をされないのなら、特に問題はない。 視線を動かし、寝息を立てている身体を見えている範囲で観察する。シーツから覗く肩胛骨にひっかき傷があるくらいで、他には特に目立つ傷は見当たらなかった。 つい自分の指先を確認してしまったものの、そこにはなんの跡も残っていない。爪も切りそろえてあるので凶器になるほどではないはずだが、力任せに爪を立てれば傷くらいつけられるだろう。肩胛骨の傷跡は新しいものに見えたので、おそらくそれをつけた犯人は宗像だと思われた。 だが、他に傷はない。殴ったあともなさそうだし、ベッドの下に脱ぎ散らかされている衣類も破れたりしている様子はなかった。まったくもって行儀はなっていないが、まともに脱いではいるようだ。つまり、少なくともそこで争いが起こったとは思えない。 そして、宗像にも特に傷はなかった。殴られたところもなければ、縛られた跡もない。内腿のあたりだけが打ち身でも作ったかのように妙に痛い原因は、なんとなく予想がついた。 (合意にしか見えないな) まあ、おそらくそうなのだろう。もし合意ではなく断固抵抗したのだとしたら、服や本人たちのみならず、この部屋がこのようにまともな様相を呈しているはずがない。 いくら、記憶がまったく残っていないくらい泥酔していたのだとしても、だ。 「…………」 そもそも泥酔した、それ自体がまず信じがたいことでもある。 うっかり飲みすぎることは、今までも何度かあった。それでもやや足元が怪しくなるくらいで、意識は大体はっきりしていたのだ。酔っ払いの自己認識などアテになるものでもないので、意識はしっかりしていても実際の言動がやや斜め上になっていて翌日反省する羽目に陥ったこともあるが、少なくとも記憶はあった。ちゃんと、しっかり覚えてはいたのだ。 なのに、今回に至ってはなにひとつない。欠片もない。 なにが起こったかはおおよそわかるし、抵抗した痕跡すら見えない以上起こってしまったことに今さら文句をつけるつもりもなければ後悔する気もないが、それにしたって実感が伴わないにも程がある。そのせいで、今ひとつ現実味がない。 いや、他でもない自分の身体が間違いなく現実に起こったことだと訴えているのだが、なにしろ記憶がないのでなにがどうしてこうなったのかが見えなかった。それが、なによりもすっきりしない原因だ。 わからないのは、不快だった。ではその不快感を取り除き、納得するためにはどうすればいいのか。 「これは、ひとりで考えていても埒があかないですね」 なにも覚えていない以上判断材料がなにひとつないのだから、これはもうお手上げだった。答えの出てこない迷宮に潜り込んで無駄な時間を費やすくらいなら、最初から答えを持っている人間に聞いたほうが早い。 ――と、いうわけで。 「起きなさい、周防」 宗像はおもむろに右手の拳を固めると、目の前で安穏と寝こけている《赤の王》周防尊のこめかみを、思いっきり殴りつけた。 「……あ? んだよ……まだ朝じゃねぇか」 「朝は普通起きるものですよ、おはようございます」 手加減も容赦もなしに殴ったはずなのに、周防はまるで意に介さず、でもかなり億劫そうに目を開けた。なんか声がしたし撫でられたから起きた、そうとでも言いたげな反応だ。 しかも口からこぼれた抗議がまた宗像の常識からはかけ離れたもので、ついついため息をつく。説教する気力すら失せるその態度に、それ以上追求するのをやめた。 それより、せっかく一発で起こすことに成功したのだ。二度寝される前にさっさと本題へと入ることにした。 放っておけば、そのまま目を閉じて夢の世界へ旅立ちそうな気配を漂わせている。そうなってしまうと、また面倒くさい。 「ところで周防」 「んだよ」 「この手はなんですか」 なにしろ、周防の腕は宗像の腰に巻きついたままだった。目を覚ましても外さないところを見ると、無意識にやっているというわけではなさそうだった。 「あ?」 しかも、指摘されても離す素振りはない。それどころか眉をほんの少し上げて、なにがいけないのかと言いたげな顔になった。 「問題あるか?」 (……問題だらけだろう) とりあえず、そんな至ってまっとうなはずの反応は意識してなんとか抑え込む。今は、そんな寄り道をしている場合ではない。 「このままだと私が動けません」 「寝てりゃいいだろ。今日休みだって言ってたじゃねえか」 「…………」 自分のことながら、そんなことまでこの男に話していたのがなによりも意外だ。 まさかとは思うが、毎日が日曜日のこの男に非番の自慢でもしたのだろうか。そんな意味のないことをしてどうするのか、昨夜の自分を問い質したい。 そもそも、べつに休みを格別楽しみにしているわけでもなかった。休みがあればそれなりに堪能するが、心待ちにはしていない。仕事も半分くらいは趣味みたいなものだ。 それなら執務室でのんきに遊んでいないで仕事しろと遠慮を知らないがゆえにお気に入りの部下に言われそうだが、それとこれとは話が別である。自分がやらなくてはいけないことと、自分がやらなくてもいいことの区別はきちんとつけていたし、やるべきではないこともある。そう、様々な意味で。 それなのになぜ、昨日の自分はわざわざ周防に今日が休みであることを教えたのか。こればかりは、宗像自身が思い出さなければ答えが出そうにない。周防が知っているわけがないからだ。 ちなみに、未だ寝っ転がったままの周防は突然黙り込んだ宗像に構うことなく、腰を撫でるように手のひらを動かしていた。温かさで痛みが和らぐせいか比較的心地良いのだが、冷静に考えると意味のわからない光景だ。 「つーか、もう少し太れよ。抱き心地悪かねえけど、もうちっとくらい肉あってもいいだろ」 しかも、放置していたらそんなろくでもないことを言い出した。さすがにカチンとも来るし、ますます意味がわからない。 「余計なお世話です」 腹立ちまぎれに、ぺしりと腰にくっついていた手の甲をはたく。もちろん、そんな些細な抗議で手のひらが離れていくわけもなかった。 大体、おかしすぎる。今まで何度も拳を合わせたし、それと同じくらいの回数は偶然行き会った店で不承不承酒を飲み交わしたりすることになったが、基本的にはお互い気にくわない相手だ。 とにかく性格が絶対的に合わないので、顔すら見たくないときだってある。むしろ、そんな日の方が多い。 まあ、いざ一緒に酒を飲み出してしまえば意外と居心地は悪くなかったりもするのだが、それだって店が閉店するまでの限られた時間のみしか共有することはないとお互いに知っているからだ。 ずっとその時間が続かないとわかっているからこそ、開き直ってさえしまえばそれなりに楽しめる。こんな時間を過ごせる相手はただひとりしかいないのだと、知っているからこそ開き直ることもできる。非日常の刺激は、時として日常に倦んだ心を癒やしてくれるものだ。 だが、それはあくまでも店が閉まるまで。こんな風にその先の時間が宗像と周防の間に存在するなどというたわごとは聞いたことがないし、そんな予定だってなかった。少なくとも、宗像の中には。 「そもそも、なぜ私があなたと一緒に寝ているんですか」 「あ?」 根本的な疑問を呈すれば、周防の眉間にしわが寄った。 そうすると元から迫力のある顔立ちにますます近寄りがたい凄味が加わるのだが、宗像がそれに構うことはない。そんな顔をしていても、周防本人に威嚇するつもりはないことを知っているからだ。 今も、せいぜい「なに言ってんだこいつ」とでも言いたかっただけだろう。ただ、面倒くさいので最後まで発音されない。それだけのことだと判断し、人によっては圧力さえ感じ取れそうな剣呑な視線を無視して言葉を続ける。 「しかも裸で」 「あー……覚えてねえのか」 とりあえず、詳細を説明せずとも言いたいことは伝わったようだった。 日頃はまるで脳みその存在など忘れたような言動をとっているところしか見せないが、周防は頭が悪いわけでも回転が遅いわけでもない。 なんだかんだで、話は早いのだ。嫌味や皮肉の応酬さえなければ、だが。 互いに負けず嫌いで、なにがあっても相手に譲るという道を選択しないので、なかなかそんな機会が成立しないだけだ。今は、揚げ足を取ったりよけいな口論をする気分ではないのだと思われる。 あきらかに、宗像が「なんでこうなっているのかまったくわからない」と態度で主張しているからだろう。 「ええ、なにひとつ」 話が早く進むことに若干安堵しつつ頷けば、周防はますます眉間のしわを深くした。 「あれでか」 「あいにく、記憶にありません」 その声音に含まれるかすかな呆れの色を察して、ことさら冷たくぴしゃりと叩きつけるように言葉を切る。記憶が残らないほどの惨状だったというのに相手にそれを悟られていなかったのは僥倖だが、こうやって自ら白状する羽目に陥っているのだからあまり意味はなかった。 それに、否だからこそ、なにがどう「あれ」だったのか、事細かに挙げ連ねられてはたまらない。 なにが起こったのかの確認はしたいが、端的な事実のみ把握できればいいのだ。できることなら、己がさらしただろう醜態については触れないでおきたいところだった。周防とて、さほど懇意でもない、そもそも好意を持ち合わせてすらいない相手と過ごした一夜のことなど、いつまでも覚えているような性格はしていないはずだ。 だとすれば、さっさと聞きたいことを聞き出して、話を終わらせてしまうに限る。 「おそらく、アルコールの影響だとは思うのですが」 「そりゃ、他に原因ねえだろ。まあ、だいぶ頭ゆるくなってんなとは……泥酔してたってことか、あれ」 「……記憶をなくすほど正体不明には見えなかった、ということですね。それはなによりですが、実際はこんな有様ですからさほど利点は感じられませんか……」 むしろ、マイナスしかない。自分自身が取った行動に自分の意思が介在していないだけでなく記憶すら残っていないなんて、許しがたいことだ。 「酒飲むといつもああなるってわけじゃねぇよな」 「当然でしょう。記憶がなくなったことなど、今まで一度もありません。今回が初めてです」 とはいえ、なぜ今回に限ってこんなことになったのか、それも今ひとつ不明のままだった。 相手が周防だったから、気がゆるんだ。その可能性は、言いたくないし考えたくすらないが、少なからず――否、かなりの勢いであるだろう。それくらいの自覚はあった。 気は合わないし話も合わないし、顔を合わせればつい舌打ちしたくなるほどだというのに、不思議と共にいれば気が休まる。口を開けば憎まれ口を叩き合うのも、ちょっとしたきっかけですぐに実力行使へと移行してしまうのも、やっかいだとは思うもののそれはそれで楽しかった。勝敗が決したことなどいまだかつて一度もなく、この先もきっと最期の時が来るまでそんな機会は訪れないのだろうが、遠慮もなにもなく力を存分にぶつけ合えることに高揚を感じない二十代の男など、きっとこの広い世界のどこにも存在しないはずだ。そう思いたい。 出会って早々にぶつかり合った結果、隠遁生活中の第七王権者・無色の王まで引っ張り出すことになり、さらに第二王権者である黄金の王直々に説教をくらったことを忘れたわけではない。最悪な事態を引き起こしてはならないことは、誰よりも知っている。心に留めてもいる。 ただ、だからといってこの男相手に過剰な自重など出来るわけがないのだ。努力するだけ、無駄である。 一応、まるで努力しなかったわけではないのだ。ただ、周防がそんな努力の成果を、わざわざ狙ってきれいさっぱり粉砕していくだけで。 理性的なほうだという自負はあるのだが、対周防に限定してそのハードルはかなり低くなる。仕方がない、きっと最初が悪かった。そうとしか思えない。 ――そういうわけで、昨夜も飲みすぎたせいでうっかり低くなったハードルを飛び越えてしまい、なまじアルコールが入っていたせいで予想外の方向にいろいろなことが飛躍していった可能性は、ないとは言えなかった。 とはいえ、周防と肩を並べて酒を飲んだのも昨夜が初めてというわけではない。もう、数えることすら止めたほどに繰り返している。 なにがきっかけであっさり意識と記憶を飛ばしたのか、想像すらつかないのが気持ち悪かった。 ……なのに、起こってしまっただろうことに対して後悔する気持ちが少しもないのが、また不思議だ。 「それで、じつは全身がありえないほどに痛いですし、とんでもなくだるいのですが」 「言っとくがな、合意の上だぞ」 しれっと言い放った周防の手は、飽きもせずに腰の辺りを撫でている。 やはり痛みが和らぐなと頭の片隅で思いながら、宗像はそれを止めさせる努力をすることそのものを放棄した。それ以上の悪戯をする素振りも見えず、なんの気まぐれか一応は労ろうとしているように感じられたからだ。 事情はともあれ、宗像を労ろうとする周防なんて、今まで一度だって見たことがない。気色悪さは否めないが、そうされることそのものは意外と気分が良かった。 今まで、自分を相手にそんな態度に出る周防を見たことがなかったのもあるだろうし、そんな気分になる瞬間が存在すること自体を想像したことがなかったからというのも大きいのだろう。知らなかったことを知るのは、いつだって楽しいし面白い。心が沸き立つものがある。 (悪くはないな) そんな自分のある意味節操のない好奇心のことが、宗像はけっこう嫌いではない。むしろ、好きかもしれない。 ただ、今はそこに気を取られている場合でもなかった。 「それくらいはわかります。この部屋だって、おそらくあなたが選んだわけではないでしょう」 「まあな」 あっさり肯定されて、またひとつ自分の推測が間違っていなかったことを知る。 周防が選んでいたとしたら、もっと趣きが違うホテルに連れ込まれていたはずだ。少なくとも高級クラスにカテゴリされるこの手のビジネスホテルは選ばないだろう。その程度のことはわかるくらいに、宗像はこの男のことを知っている。 そして宗像自身がここを選んだ以上、合意という選択肢以外はそもそも存在を許されない。もし違っていたら、今頃このホテルは全壊していてもおかしくないはずだ。アルコールにやられて記憶を見事にすっ飛ばした前科が目の前にある以上、その状態における自分自身の理性や自制心に期待できるほど、宗像は楽観的でもなかった。 ――それでなくても、周防を相手にするとそのあたりは効きが悪くなるのだ。 「なにしろ泥酔したこともそのせいで記憶を飛ばしたことも今まで一度たりともなかったので、なにがどうしてこうなっているのかがまったくわからないのです。合意であったことも推測がつきますし、昨夜の行為については文句を言うつもりも責任を追及するつもりもありません」 「へぇ?」 「ただ、一応確認はしておきたいのですが、昨夜、私はアルコールを摂取しすぎた結果、どういうわけかあなたと合意の上で性行為に及んだ、ということでおおむね間違いないでしょうか?」 「……まあ、そうなるな」 端的に事実を確認すると、周防が若干嫌そうに眉間にしわを寄せた。それでも腕が離れていかないどころか、むしろより引き寄せられたので、忘れようとしていた現実を改めて突きつけられたことが不愉快だ、というわけではなさそうだ。男相手にやることではなかった、と後悔しているようにもあまり見えない。 (なにか不満でもあるのか?) どちらかといえば今までは周防にしては機嫌がよさそうだったので、可能性としてはたった今宗像が口にした言葉が気にくわなかった、といったところだろうか。確かに確認したかった事象を並べただけなので、そういう意味では雰囲気もなにもない。とはいえ、周防もそのあたりの表現になんらかの夢を見るようなロマンチストというわけでもなかろうに、意外といえば意外な反応だった。 とはいえ、宗像がそこに配慮してやる義理は、まったくもって少しもない。微塵も、である。 「なるほど、わかりました。事態の把握にご協力いただき助かりました。感謝します」 「…………」 眼鏡がないのであちこちぼやけてしまっている視界でも、さすがにここまで至近距離にあれば周防のあまりわかりやすいとは言えない表情は読み取れる。これは、憮然としている、というやつだ。 どういう経緯をたどってその結末に行き着いたのか、記憶の空白があるのは気になるがあまり追求したくはない。追求したくない理由すら考えたくないというのは、宗像にしては珍しいことでもある。 そして、そもそもなぜいつもならまったく影響など受けないはずのアルコールに負けたのか、それが不明なのはおそろしく気持ち悪いが、宗像が記憶を飛ばしていたことにすら気づいていなかった周防に聞いたところでわかるわけがない。皮肉や嫌味で返されて、本来味わう必要がなかった腹立たしさに苛まれるだけだ。 と、なると。 もう、確かめるべきことはない。あとはさっさと身支度を整えて、この部屋を出ていけばいいだけだ。支払いさえしておけば二度寝を決め込むなりなんなり、周防は勝手にするだろう。 ……そのはずなのだが、慣れない痛みとだるさを訴え続けている身体は、まだ動いてくれそうもなかった。 「……ただ、周防。あなた、やりすぎでしょう。身動きできない痛さなんですが」 「あぁ?」 ため息まじりに文句を吐けば、周防は少し眉を上げた。 文句を言われたことに気分を害したのかと思えば、そうでもないらしい。憮然としている、と表現するよりは拗ねている、のほうが近いかもしれなかった表情が、少しだけ楽しそうに――正確には好戦的なものになる。 「てめぇが煽るから悪い」 「ですから記憶にありません。それに、それは言い訳にもなっていない気がします」 「チッ……後始末はしてやっただろ」 「記憶にはありませんが、まあそうなんでしょうね。……というか、あなたが私を風呂に入れたんですか……そうですか……」 身長百八十を越えた大の男がふたり、いくら高級ビジネスホテルとはいえあくまでもホテルの部屋に備えつけられたユニットバスに、一緒に入っていたというわけで。 冷静になって考えてみると、頭痛がしてきそうな光景だ。記憶に残っていなくて、むしろ救われたのかもしれない。 ただ、周防にそういった他人の世話が出来るとは思っていなかったので、そこは意外だったかもしれない。そしてそう思ってしまうと、それをこの目で見たはずなのに覚えていないのが若干惜しい気もしてくるから不思議だ。 そんなレアな光景には、おそらくもう二度と遭遇することがないだろうから。 「なあ、宗像ァ」 少しだけもったいない気分になっていると、いつの間にか上半身を起こして顔を寄せてきていた周防が、宗像の耳元で囁いた。 「なんですか」 周防に名前を呼ばれるのは、嫌いじゃない。そのせいなのか、こうやって名前を口にされると無視するという選択肢は端から頭に浮かぶことがなかった。 そもそもこの男を無視するなど、そんな難しいことが出来るわけない。 いつだって、嫌というほど存在を主張している。わざとヒビの入ったダモクレスの剣を見せつけて、宗像を呼びつけることだって少なくない。 ――それにうんざりする反面、ごくたまにではあるが満足感と似たものを覚えてしまうのは、なぜなのだろう? 腰を抱いたままの手のひらが、痛みをなだめるように平均よりも高い体温を移してくる。 「てめぇ、本気でまったく、これっぽっちも、覚えてねぇんだな?」 「残念ながら」 「なのに、起きてみりゃまるっきり身動きできないんで機嫌が悪い、と」 「……そういうわけでもありませんが」 どちらかと言えば、なぜ酒に負けたのかがわからなくて気持ちが悪い、が正解な気がする。だが、なぜか周防はそう思ってはいないようだった。 「まあ、動けないのは実際不便ですね。早く落ち着ける場所へ戻って、ゆっくりと休みたいところです」 出来ればもう一度、温かい湯に浸かって風呂を堪能したいという気持ちもある。周防が言っていたとおり、後始末はしっかりとされているらしく不快感はないのだが、身体の痛みが湯の温かさを求めていた。 「ここで寝てきゃいいんじゃねぇの」 「あなたがいたら落ち着けないでしょう」 「落ち着かなきゃいい」 「あなたがなにを言いたいのか理解できません。ついに日本語すら理解出来なくなったのですか? 身体が痛いので、温めたいんです」 「んじゃ、あっためてやるよ」 「っ!?」 周防の肩に胸を押されたせいで、上半身が傾ぐ。そのまま体重をかけられて、背中からベッドに沈むはめになった。 「ツッ……」 背中から全身に伝わった衝撃が、身体に巣くっていた痛みを増幅させる。吐く息と共に思わず漏れてしまったうめき声を聞きつけたのか、周防がニヤリと口の端を上げた。 「なに、を」 「だから」 腰に回っていた手がするりと動く。 「あっためるついでに、もう一度教えてやる」 明確に、意図を持って。腰から背中をたどり、脇腹を撫で上げていく。 手のひらの熱さに、背が震えた。覚えのない、記憶にない、未知の感覚が襲ってくる。 「は? ……って、ちょっと待ちなさい」 「待つわけねぇだろうが」 いつの間にか完全にマウントを取られてしまって、上にのしかかる身体を押し返すのも難しい状態になっていた。 そもそも、身動きできないのだ。ちょっと身じろぎするだけでも、あちこち痛みに苛まれる。 周防の素肌が触れているところだけ、痛みが少しとはいえ引くのがなんとも言い難い。人間湯たんぽとしては合格点をつけたいところだが、宗像の意を無視して勝手に動きまわるのが玉に瑕、というか致命的なのでどうしようもなかった。 首筋に吸い付こうとする赤い頭を、なんとか持ち上げた腕で押しのける。 「ですから、なにを」 「もう一度教えてやるっつたろ」 今度は声が完全に拗ねていて、さすがに周防がこれからなにをするつもりなのか、宗像も理解した。 (こいつ、もしかして俺が昨夜のことを覚えていないのが不満なのか?) その発想はなかった、というやつだ。 どういう化学反応が起これば周防の中でそういう感情が生まれることになるのか、それは宗像にはわからない。理解不能だし、正直予測すら不可能だ。 ただ、あ然とはするものの、不埒な動きをし出したその手を止める気にはならなかった。 もちろん、そんなことをしても無意味だからだ。周防を止めようとすればそれこそ部屋が全壊するリスクを負わなければならなくなるし、そもそも身動き出来ない。ベッドから起き上がって服を着ることすら出来ない人間が、抵抗しようとするだけ無駄だ。 それに、正直なところ嫌なわけではない。それに、経験したはずなのに覚えていない記憶のトレースが出来るのなら、それはそれでそこまで悪くもないのではないか。同じことをすれば、うっかり思い出す可能性はなくもない、かもしれない。ほぼ、ないだろうが。 ――まあ、そんな風に思ってしまったので。 どうせなら、後で改善要求とクレームを突きつけるべく、すべて余さず記憶しておく決意をして。 「……今度は、忘れないようにな」 そんな、まるで願いのような言葉ごと触れてきた唇を、受け止めることにした。 その夜の宗像礼司は、考えてみれば確かにおかしかった。 「私は、あなたに興味があるんです」 宗像がそんなことを口にするなんて、これはもしや天変地異の前触れか。一瞬、そんなバカバカしいことを真剣に考えてしまう程度には、ありえないことだ。 口を開けば慇懃無礼な嫌味と皮肉しか飛ばしてこないこの男が、周防に〝興味がある〟という。しかも、今まで見たことがないような、どちらかといえば凄艶とでも表現したほうがいいかもしれない気配を漂わせて。 (飲みすぎか、こいつ) まず間違いなく、そのせいだろう。酒で脳みそがやられて、日頃は絶対に口にしそうもないことを口走ってしまった、というところか。 今夜の宗像は、いつも彼が好む酒とは違うものを飲んでいた。バカみたいにアルコールに強い男がそれだけで酔うとも思えないが、たまたまそんな気分だったのかもしれない。 なにしろ、宗像のことだ。今まで一度も酔ったことがないから体験してみたい、などという意味のわからない理由でこんな状況に陥ることが出来てもおかしくはない。意味がわからないが、宗像礼司とはそういう人物だ。頭が良すぎて馬鹿というのは、ああいう奴のことを言うのだろう。 だからきっと今のひと言は、たわごととして聞き流すのが正解だ。 いちいち、真面目に受け取ってはいけない。そういうものだと、常識というものを一応知ってはいる周防の理性が釘を刺している。 ――ただ、あいにく。 「奇遇だな」 周防もそれなりに酒を飲んでいるので、比較的とはいえ思考回路がアバウトになっていた。 だから、理性の忠告はあっさりと無視される。ため息をつく理性に向かって肩をすくめながら、周防の本能はそのたわごとを真実として受け入れた。 そうした理由は、簡単だった。 「俺もだ、宗像」 自分も、同じだからだ。本音と共に、煙草の煙を吐き出す。 視線を流せば、グラスに映った紫紺の瞳が満足そうに細められていた。 たとえ本人が覚えていなくても、本音なのかそれともただの酔っ払いのたわごとなのかさえ定かではなくても、周防はその言葉を聞いてしまった。 だから、遠慮するつもりなどないのだ。 他の誰かなら――己を王と仰ぐクランズマンたちならともかく、宗像礼司相手に遠慮などするだけ無駄である。そんな単語は、周防の脳内辞書に存在しない。 いつだって、全力でぶつかるのみだ。 宗像は、周防が唯一全力を解き放つことが可能な、ただひとりの存在なのだから。
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